飲酒運転は、やっていないつもりでした。が振返ってよく考えると、毎日の朝の通勤は飲酒運転でした。アルコール依存症で入院する事を会社に届け出た時に、会社の看護師が慌てて、私の所に来た。「車の通勤は飲酒運転ではないか?」と、確認に来たのである。その時は、飲酒運転はしているつもりは、なかったので「やっていません」と平気で答えた。自動車関連の会社に勤めていたので、飲酒運転はご法度だった。自分でも酒くさいとわかる時があったのだが、飲酒運転をしている自覚は全くなかった。気づかないという事は恐ろしいことだ。朝の通勤で何かあったら今の自分はない。考えただけで、背筋がぞっとする。
免許取りたての頃、田舎で高校時代の友人宅で酒盛りとなり朝方まで飲んでいた。そんなに酔っていなかったので、車を運転して帰った。途中の信号で赤になり停止線手前で止まったつもりだったが、停止線をかなりオーバーした。深夜の時間帯で岡山の田舎で誰もいなかったので、良かったが、これが飲酒運転の怖さかと、これ以来気をつけるようになった。が完全に飲酒運転を止めたかというと、そうはならず、当時の飲酒運転のゆるさの時代背景もあり、これぐらいならと何度か飲酒運転を行っていたことは、ある。
アルコール依存症になっていただろうと思われる頃には、飲酒運転をするとか、しないとかではなく酒を進められると、がまんできず車で行っているにもかかわらず、断らず酒を飲んでいた。帰りは飲酒運転で帰る事になる。断らないにも、かかわらず「あの人に飲まされた。この人が飲めと言うから」と人のせいにして飲んで、帰りは飲酒運転をしていた。
ある日、事故を起こしてしまった。深夜、飲酒運転で帰る途中、事もあろうか道路に駐車している車に追突した。深夜で誰もいない。飲酒運転でもある。追突された車は駐車禁止の道路に駐車している。自分の都合よく考え、追突して申し訳なかった事と連絡先を紙に書き、ワイパーにはさみ、その場から立ち去った。駐車している車に追突するくらいなので、相当泥酔していたようで、その後の自宅までの運転はひどい状態で、誰がみても酔っ払い運転だとわかる蛇行運転だったが、運よく無事に帰宅できた。後日、持ち主から連絡が入り、修理代を払う事を約束したのだが結局、修理しない事となり、修理代‘0円’で決着となった。お咎(とがめ)なしとなり、運が良かったのだが、痛い思いをしなかったお蔭で、まだまだ懲りない自分があった。
時代も変わり、飲酒運転が厳しくなった。自動車関連のメーカーに勤めていた自分は、飲酒運転がわかれば、一発で懲戒解雇である。わかっていながら、一杯の酒欲しさに、自分の人生をかけ、何度か飲酒運転をしてしまった。酒と自分の人生を天秤にかけ、酒を取ったのである。今思うと、なんてバカな選択であったか、なんて狂った精神状態だったか、恐ろしくなる。アルコール依存症という病気の得体の知れない、自分で気づく事の出来ない症状に振り回されている。
会社の健康保険組合から、発行されている定期便り(チラシ)にアルコール依存症の事が紹介された。自己チェックでアルコール依存症の可能性があるとなるのであるが、気にも留めず、だったらみんなアルコール依存症じゃないか。と軽くあしらった。気づけるチャンスであったが、自分にとっては、まだまだ時間が必要で、その後 数年 問題を起こしながら酒を飲み続けた。
ようやく自分のおかしさに気が付き、精神病院にたどり着く事ができた。そして断酒会に巡り合い、今の自分があります。断酒していて、飲酒運転の可能性がなくなり、ずいぶん楽になった気がする。先日、飲酒運転の検問で堂々と警官と話しができ、少しうれしかった。
飲酒運転で大きな事故や人を傷つける事がなかった事は、幸運でしかない。運がよかっただけで、何かあったら今の自分の人生はない。この幸運を自ら手放さないように断酒継続していきます。
これからも断酒会に通い続けながら、自分と向き合い、『自分がアルコール依存症であること』『自分が飲むとどうなるのか』を忘れないようにしていきます。今日も一日断酒 がんばります。
ありがとう ございました。