2001年暑い8月、ヘロヘロ状態で姉につれて来られたのが北浦和の診療所である。親切に点滴をしていただき、助かった。その時は姉も「かなりやばい」と思ったらしく、自分もつらかったので「入院させてくれ」と言ったがさすがにこれは断られた。しばらくして落ち着いてから看護婦さんから断酒会の資料とかいろいろな資料をいただいた。その診療所に亀の会という断酒会がある事、この病気は繰り返すからしっかり断酒会とかに入って酒を断たないと、普通の病院は受け入れてくれないし治さないと社会的にもダメになるし、廃人にななって人生がぼろぼろになる病気であるとか、とにかく断酒会に出席して断酒しないとだめだよ。等々いろいろととても親身にアドバイスをいただいた。
姉の家に帰り、いただいた書類をみてみると、目を覆いたくなる資料ばかりだった。確か断酒会の資料のなかで「依存症への道」だったか、病気が進んで行くと回復するか、そのまま破滅へ向かうかどっちかの資料をみて愕然とした。自分がまさに中間点ぐらいまで来てしまっているではないか。
否認というのはまさにこの事。ちらちら見ながら書類を遠ざけたり、かといってまた見たりだ。依存症つまり「アル中」になっている事実に向き合おうにも向き合えず、かといってもうこんなところまできてしまっているのか?だけどおれは大丈夫だなんて考えていた。要するに勝手な自己判断で自分は絶対違うと考えていた。
数日たって大分良くなると、姉の家から自宅へ戻り職場に復帰すると、もうそんな事は忘れてというか忘れたいので、以後その書類は遠ざけて見なかったし、亀の会にもなんとなく行きたくなくて行かなかった。
その年の10月に気を取り直し元の職場に復帰した。以前からの毎日の「缶チューハイ」から、350mℓの缶ビール一本にしてしかも、食前酒のように軽く飲むだけで実質は半分程度しか飲まなくて、会社帰りの駅や駅からの帰途でも飲まずにできた。「ほとんどのまなくてOK。俺は大幅節酒に成功した~。OKOK。」ぐらいに考えていたが、2ヶ月もすると駅からの帰途でこのくらいいいだろうと飲んだ。その結果その日から2週間後には見事に「連続」していたのである。その年末にはスナック通いと連続飲酒で、年明けから会社はズル休み。1月中旬に復帰したが、その時は、上司に「もう何回も休んだり復帰したりしていて自分で自分が厭になっているし、自分は以前は周囲から尊敬されていたのに、今はその目も違ってさげすまれている感じがたまらない。再度同じ事をしてまた同じ思いをしたくないので、会社を辞めさせていただきたい。」と申し出た。しかしその翌日にはあっさり前言撤回し「やっぱり、がんばらせていただきたい」と謝る始末。
復帰したものの、翌2月中旬にまたもやの連続飲酒。今回は(携帯電話を置き忘れて)大宮のサウナから会社に問い合わせの電話がいってしまった事も有り「こりゃもうだめだ」と観念した。幻覚を見たりかなり辛かったのも大きな原因だが、観念した最大の理由はやはり「会社に今までのウソがばれた」事なのは間違いない。
2002年の3月中旬 私は成増に入院した。今回は姉がもう見るに見かねてインターネットで調べて入院の手はずを取り付けてくれたのである。その晩成増のベッドに入って、すごく安心して眠れたのをよく覚えている。数年前から続いた異常な飲酒の世界にやっとおさらばできた。そういう開放したすがすがしい気分だった。
入院中にさっそく気になっていた「亀の会」に出席した。堂々と会に出席していると自分自身は思い込んでいたが、司会の方から「ナリマス」は精神病院なんだから、まず退院してからが本番だと言う事をアドバイスされ、「そうか私は東京アルコールセンターという依存症を治療する専門病院(本気でそう思っていた。)に入院しているつもりだったが、実際には世間に名前が鳴り響いた天下の精神病院「ナリマス」に入院しているんだなあと初めて実感した。
私は断酒して新しい人生を歩き始めました。私にとっての原点 診療所の「亀の会」は現在は開催されていませんが、入院~断酒につながった原点であります。入院中に埼玉中央断酒新生会浦和断酒会に入会させていただきました。
あまり無理せず、かといって事断酒については細心最大限気を使って、例会出席断酒継続をこれからも長く長く続けていきたいです。