私が断酒会と出会ったのは今から13年前の事です。入会する3年前に初めてアルコール専門病院に入院し、病院のプログラムで例会という名前を聞き初めて参加した時の事は今でもハッキリと覚えています。
16歳の時、高校を中退し叔父がやっている工務店に大工の小僧として住み込みで働き始め建前で職方から『俺の酒を呑め』と言われ樽酒を1合升で塩を舐めながら呑んで美味しくて調子に乗って呑みすぎて何が何だか分からず気が付いたら部屋に居た事を覚えています。しばらくはたまに呑む位で晩酌などはしていなかったのですが19歳で実家に帰ってきて大工仲間と呑み歩くようになってからは自然と晩酌をするようになり休みの日は朝から呑むようになっていました。両親からは『秀和、朝から呑む癖は止めろ』と、しょっちゅう言われてましたが聞く耳を持たず呑みすぎて仕事を休むようになりお酒に意地汚くだらしない呑み方になっていました。
それでも体力はあったので酷くはなっていませんでした。本格的に酒量が増えたのは2度目の離婚をした時で大工仲間や親からの電話にも出ず2週間程行方をくらましていて、その時もずっと呑んでいてお金が底をついた時何食わぬ顔で家に帰り酒代を稼ぐかのように仕事に行きお酒を呑み、呑みすぎで仕事を休むの繰り返しでついに仲間からも親からも見放されました。
自分でも嫌になり縁もゆかりも無いところに行き、住み込みの仕事をしながら常に呑んでいる状態が2年続きその土地にもいられなくなり、また地元に帰ってくることになったのですが誰にも言わず住み込みで働き始め日銭を貰っては呑むの繰り返し。結局所長にも見放され生活保護を受けて生活する日々になりました。『働かなくても呑める』そんな事を思いながら10年近く過ごしました。
そんな生活で良いわけも無く役所に良い顔をする為に1度目の入院をしました。アルコール依存症特有の『自分は他の人とは違う』と言う考えでいたので退院後節酒が出来ると思い退院してすぐに再飲酒。勿論節酒などできるはずも無く半年で2度目の入院。退院後懲りずに節酒を試みるも出来るはずもなく呑み続ける中で自分が嫌になり睡眠薬とお酒を大量に呑んで気がついたら両手両足包帯でぐるぐる巻きで警察官数人と10年以上疎遠だった両親と総合病院の処置室にいました。後で聞いた話では自分で包丁でめちゃくちゃに切り付け、たまたまそれを感じ取ったかかりつけの町医者の看護師さんが役所を通して両親に連絡し身元引き受けとして再会しました。そのまま両親の自宅に連れて行かれました。
そんなことが起こったばかりなのに実家でも呑んでいました。両手より両足の傷が酷くあまりにも乱雑に切った傷だったので縫合はせずラップで巻いている状態でした。呑んでいるせいもあり出血が止まらずラップの内側があっという間に血だらけになっていました。その血だらけの足のラップをお袋が何度も交換してくれてその姿を見た時『今度こそお酒をやめよう』と、心に誓い3度目の入院をしました。退院後特定の自助グループには入らずあちこち転々と通っていました。そんな時初めて断酒会を知った時の会長が『人見さん自分の地元の断酒会に身を置いた方がいいぞ』と、言われ今の埼玉西部にお世話になることになり今年で10年目になります。
平成31年2月26日にお袋が他界。色々な思い出が駆け巡りましたがお酒に逃げることはありませんでした。自分の足を手当てしている姿が忘れられなく『再飲酒イコール裏切り』と言う思いがよぎりました。お酒で散々迷惑をかけろくな思い出がありませんでしたが断酒している姿を8年あまり見せることができ、『せめてもの親孝行だったかな?』と思っています。私が断酒会に繋がることが出来た一番の理由です。今は、会の仲間に助けられ11年断酒継続が出来ています。これからも断酒継続と共に酒害で悩む人の力になれればと思っています。